世界のあちらこちらでテロ行為が、頻発しているけれど、どうなっているのでしょうか?
どのような理由があるにせよ、暴力での報復は許される行為ではない。
あってはならないことです。
しかしながら、アメリカとフランスの事件の背景を聞いていると、どこか釈然しない。
わたしは、その映画も風刺画も見ていないし、あえて見たいとも思っていません。
もし、自分たちが大切にしているもの、信じているもの、信仰しているものを、否定されたり、愚弄されたり、ましてや殺害されたり(映画の中だとしても)したとしたら、どういう感情を持つだろうか?
自分たちが、相手(他者)を、受け入れることのできない信条の持ち主であったり、理解することができない、もしくは自分たちの価値観では認めることが出来ないなどという理由があれば、相手に対して、他者の感情などはおかまいなしに、どのような表現をしてもいいのでしょうか?
わたしが、この2つの事件を聞いてまず感じたことは、どちらも『品』のない作品(映画と風刺画)という印象です。
なぜに『品』がないと感じたか。先に述べた他者が大事にするものを、あえてもちだし自分たちの観点(価値観)によって表現しているためです。
この一件に限らず、近年このような『品』のない行動や対応が、国家間や、政府、政治家などからも多く感じられるのは、さまざまな情報が一瞬にして世界中を飛び回ってしまうような世の中になったせいなのか、はたまた巷から『品』というもの自体が、消えていっているからなのでしょうか?
価値観は、人によって異なります。ましてや国や人種、信仰が異なれば、価値観は全く異なるかもしれません。
全く異なる価値観を、互いに認めることは難しいかもしれません。だからといって、それを理由に他者を否定することがあってはならないのではないでしょうか。
価値観の違いのなかからも、他者の大事にしているものについては理解を示す。また、自分の大事にしているものを、他者にも理解してもらうように努力をする。
そういった他者を理解しようという想いが、いまの世の中に必要なのではないでしょうか。
そのような心構えから『品』という物も備わっていくのではないでしょうか。
今回の事件も、他山の石としたいものである。
つけ加えれば、ひとつ気がかりなのが、今後の動向である。
表現の自由に対しての暴力(テロ行為)ということが、焦点になり問題の背景が無視され、信仰的・人種的な思想と同調して、民族や国家としての大きな対立の火種にならないことを祈ってやまない。